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挙田精肉店は新橋駅から歩いて2分。JRの車窓から見える。サラリーマンが夜毎繰り出す飲み屋街の真ん中にある。
店主は島田美太郎副理事長(みなと支部)、昭和12年10月生まれの67歳。肉屋として2代目である。
小学生で丁稚奉公
父であり創業者である治郎吉さんは、10年前に87歳で亡くなった。
神奈川県藤沢から11歳で、東京の肉屋へ丁稚奉公に出てきた。同郷の人が日本橋で浅田軒という飲食店をやっていて、肉屋を開業することになり、責任者となった。そこでは後に組合の増田耕次元常務(牛込支部)も働いた。
昭和8年、浅草で創業、住まいと店があった。やがて美太郎が生まれた。子供は6人できた。銀座にもお店を持った。
「子供たちをみんな学校行かせてくれて、ここまで育ててくれた。おやじは朝から晩までまな板から離れない、働く一方だった」
母はキミさん。秋田の女性で、短大を出て教員免許を持っていた。店員が大勢いたので店は一切関わらず、子育てに専念した。
「内助の功で、目立たないように影で帳面を見てくれていた」
寝たきりだが、今93歳で元気にしている。
銀座が遊び場
美太郎少年は戦争中、疎開で小学校を6回変わった。東京の浅草と父のいた藤沢と母の故郷の秋田を行ったり来たりした。浅草の家は焼けてしまったが、無事だった。
戦後、兵隊から戻った父は、銀座のソニーの裏手で肉屋を開いた。銀座の大通りの両側は、露天のテントが張られ闇市になっていた。美太郎少年はアメリカの駐留軍の兵隊にかわいがられた。当時、松屋・三愛・和光などは米軍専用になっていて、日本人は立ち入り禁止だったが、肉を買いに来た兵隊に連れられて、入っていた。
「物は全然ない時代。『坊や連れていってあげるから』と言って、初めて食べたアイスクリームがおいしかった」
また、今は首都高速が走っている数寄屋橋の下には川が流れ、貸しボートがあった。土橋から浜離宮を通り、隅田川から東京湾へ出た冒険もなつかしい。
長男として
島田副理事長は6人兄弟の長男。男3人、女3人の構成。
しかし、一代で築き上げた父の大変な苦労を小さい頃から見ていて、肉屋は継ぎたくなかった。他のものになりたかった。
「高校生の時、月謝を払えなくて、肉を職員室で売って払ったこともある」
それでも家庭環境が許さなかった。高校生・大学生の時も一緒に手伝った。セリにも行った。
「だから、せがれは自由にさせた。一生は一生、人間は自分の好きな道を選んだ方がいい」
やるからには
美太郎青年はある日父に、肉屋の修業をさせてくれと頼んだ。返ってきた父の答えは「その気持ちがあったら、自分でがんばれ。自分で努力してやってみて、わからないことがあったら教えるから」
島田副理事長はふり返る。
「おやじは明治の生まれで、大正12年の関東大震災も経験している。小学校しか出ていないで、自分で切り開いてきた。だから教えようとしなかった」
親の苦労を肌身に感じて育った長男は、逆になんとかしようと思った。やる以上は人に負けたくなかった。
弟ふたりもしばらく手伝ってくれたが、やがてそれぞれの道に進んで行った。
新橋へ移る
昭和25年、銀座から現在の新橋に移転した。土地も購入して、自分の店を構えることができた。
新橋の場所は父親と相談して決めた。飲食店が多く、駅に近いことがポイントになった。銀座に近いこともあった。
「体を使わなければいけない時代だった」
平成4年、地下1階・地上4階の現在のビルを建てた。
その頃まで、がむしゃらに働いた。
「大変だったね。ただなんの道でも、その道に入って一生懸命努力すれば成功できると思う」
途中、高輪で小売専門の店を数年開いたこともあった。ところが、バブルの頃、土地の買占めでいたるところ歯抜けになって人が減ってしまい、撤退を余儀なくされてしまった。
キログラム単位で
商売はほとんどが納めだ。まわりの飲食店と学校が8校、小中学校が5校と高校・養護学校に入れている。八芳園と品川プリンスホテルへも卸している。
一般家庭は全くないので、店に来るお客さんも板前さんが多い。
「チェーン店が増えて、本部から品物が来てしまうから、難しい」
惣菜類は当初からやっていない。
「ここでやるとしたら弁当だけど、うちはあくまでも肉屋だから、肉オンリーだ。肉を売る努力をした」
それも買っていく人は、ほとんどキログラム単位で買っていく。グラムの単位で買っていく人はほんのわずかだ。
食肉組合が大切
お肉屋さんの減少について語る。
「生鮮三品はなくてはならないもの。肉屋はその場所場所に合った努力が必要だ。お客様の要望に応えてきめ細かく対処していく努力が、生き残る道だと思う。スーパーは決まったものしかない。肉に関することはすべて応えることができる専門店になって欲しい」
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| JRから見える看板 |
また、少ない人数だからこそ、支部長さんに骨を折ってもらって、支部会は必ず毎月開いて意思の疎通を図り、和を大切にと説く。
「役員が努力している、新聞もカラー化された。組合員も自分達の組合なんだという認識を持って、もっともっと組合を大切にして欲しい。
年に1回でも、組合から肉を買ってください。事務局の係がもっと大勢でやらなければいけなくなるようにしたい。
『組合に入っていて良かった』という風にみんながなって欲しい」
みなと支部は区の統合を真っ先に成し遂げた支部でもある。それから、青年部に対して激励。
「若い人は夢を持って欲しい。悲観的に物事を見ないで、希望を持って進んで欲しい」
夢は羊牧場
結婚は28歳の時、築地青果市場の仲買業の娘さんの葉子さんとお見合いで。子どもは3人。息子の栄治さんは医師に、松代さん・美貴さんの娘ふたりは独立している。
「恋愛している時間もなかったし、子ども達もどこへも連れて行ってやれなかった」
朝から晩まで働く一方だった唯一の心残りだが、それでも素直に育ってくれた子ども達に感謝を込めて、分け与える財産は残せたかなと言う。
「もちろん女房の協力がなかったら、ここまでなれなかったと思う」
現在、元気な4人の従業員がいる。
「みんな長く、一生懸命やってくれる。従業員に恵まれた」
これからはインターネットの導入を考えている。遅いくらいだと思う。
この春から町会長になった。意外な感じがするが、初めて引き受けた。
趣味は今、人と会って話をすることになった。政治家・区長・警察署長・料理屋などあらゆる業種の人と、情報交換をするのが楽しみになった。
そして数ある夢のなかで、北海道に羊牧場を持って、今ブームになっている国産のマトンを育てることを語ってくれた。
資料収集と現地視察と、着々と事は運んでいるらしい。
〔2005年(平成17年)5月15日号「東京食肉新報」掲載〕
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