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ことし5月にドイツ・フランクフルトでIFFA国際食肉機械見本市が開催された。「肉のたかさご」ではローストポーク部門に出品。その結果、『焼豚ハムキング』が金メダル、『バラクーヘン』が銀メダル、『ベリージャポニカ』が銅メダルを受賞。出品した3品とも輝かしい成績をおさめた。
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右が銅賞の『ベリージャポニカ』
左上が銀賞の『バラクーヘン』
左下が金賞の『焼豚ハムキング』 |
メダルの
表(上)と裏(下) |
初参加で金銀銅賞
藤田有宏社長が語る。
「銅メダルのベリージャポニカは開発したばかり、麻の実と芥子の実を使って1週間漬け込む」
『塩浜工房』が完成したばかり。フル稼働すれば評判の日本の味≠燒{格生産される。
出入りの機械の業者に勧められてことし初めて3品を出品、3つとも受賞の知らせが届いた。
「おいしさの追求にはキリがないが、今回うちの商品が国際的に通用するという実績ができて、最高に嬉しい」
始めは高砂牛肉店
「肉のたかさご」の歴史は、祖父の千恵蔵さんが100年以上前に静岡の浜松の農家から家出して、東京の佃に住みついたことから始まる。
やがて父の勝美さんが生まれた。父は石川島播磨重工業で腕のいい仕上げ工として、戦争中も徴用されて働いた。また同時にミルクホール「高砂亭」の名で洋食屋を経営していた。終戦になって米が配給制になってしまったため、肉を取り扱っていた知識を元に、取引先にアドバイスを受けながら肉屋になった。
昭和22年、「高砂牛肉店」を創業した。高級感をねらったネーミングだった。
13年前に94歳で亡くなった。
「おやじが敷いたレールの上を走っているだけ」と2代目は語る。
藤田有宏社長は16年1月1日生まれの66歳。3人兄弟で姉と妹にはさまれて「子どもの時から、お前は跡取りだから肉屋になると言われていた」から、都立第三商業高校を卒業すると、神田のイヌイに住込みで1年修業。
34年の頃は、父母と姉妹とでやっていた小売屋さん。佃は職工の町で人は大勢いたが肉は安いものが売れた。コロッケは5円だった。
「小学生の頃から学校行く前にイモを洗うのが日課だった」
38年になって飲食店納めを始めた。最盛期には25軒になった。学校だけで8軒になった。だが人手がいることでコストがかかり、利益は望めずに全部撤退することになる。
喜美代さんと結婚
40年1月20日、24歳で喜美代さんと結婚。千葉県白浜から月島の姉の酒屋を手伝っていた。お華を習っていて、そこに有宏さんの姉もいた縁だった。
「ふたりで話をしていてもお店に客がくるとぱっと『いらっしゃいませ』と応対。この人しかいないと思った」
喜美代さんも商売が好きだった。心を決めた。
「お嫁さんに行ったからにはその店を大きくする」
10人兄弟の末っ子の8女。海あり山ありの天地で天真爛漫に育った娘が肉屋になった。しかも、その頃はまだまだ小さな小さな肉屋だった。
紆余曲折を経て
46年、津田沼の袖ヶ浦の分譲地で支店を開店して大当たりしたが、母ひささんが過労で倒れて、治療に専念するために2週間で売却して母は元気を取り戻した。
49年にはパン屋を始めた。月島の支店そばのパン屋が空いたので、パン作りを修業。『ビクトリー』を開店。
「2mのターンテーブルを2段にして、奥に鏡を張って、36種類の調理パンを並べた」
色は白く固くならないパンが、ヤマザキパンで今でも商品として残っている。
ところが売れ過ぎてしまって設備を拡張しなければいけないのだが、それも大変とわかり3年でやめてしまった。
その前には『キッチンひとやすみ』でカレーショップを1年半、牡丹町の会社員相手に開いた。
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| 本社(上)とできたばかりの塩浜工房 |
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コンビニエンスストアもやった。『デイリーストア』の38番目のお店。
「この時は5年間休めなかった」
だが前と後にもコンビニができて終戦。
30代から40代、様々な歴史を刻んだ。
佃のまちおこし
58年、店を今のビルに改築した。よそ見はやめて店1本にもどった。
様々に手を出してみても従業員の不正に遭ったり反省点もあった。
「よっしゃ、今度は佃のまちおこし」
佃の人のために、ステーキの焼き方を教え、惣菜に力を入れ始めた。
時代も、大手の工場が立ち退き近代的な超高層ビルの街に変化をし始めていた。
少年の頃、店の配達先で「お宅の売りはなんだい?」と聞かれて「焼豚です」と答えた。
3番目の娘さんの博子専務が、小学校3年生の時の作文で『東京一の焼豚の店になりたい』と書いた。
TV『ズームイン朝』で写るよう、スタジオのガラスの外に「高砂の焼豚」の看板を持って、朝5時に起きて十数回通った。
1つ1つのステップを踏んで、ようやくここまで来た。
夢は海外進出
4年前、「高砂精肉店」の店の名前を「肉のたかさご」に変えた。それからまた一層お店に活気が出た。
これからの「たかさご」として社長は海外進出を目指す。
「シンガポールとハワイで売るのが夢、みんな喜んでくれると思う」
一方、夫人は日本全国に商品の素晴らしさと肉屋の奮闘を知ってもらいたいと思う。
〔2007年(平成19年)7月15日号「東京食肉新報」掲載〕
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