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総武線・新小岩駅南口を出るとアーケードのある商店街が500mほど続く。買い物客が大勢いる。そのアーケードも途切れ、平和橋通りを少し歩いて右へ曲がると、駅から1qほどの辺りに江戸信横丁≠ェある。その江戸川区松島3丁目の下町の路地に『肉のあさひ』はある。
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静かな江戸信横丁
『肉のあさひ』旭畜産の加瀬英一常務理事は、昭和12年1月生まれの70歳。
「昔、その先に江戸川信用金庫があった。今は合併して朝日信用金庫になっている」
江戸信横丁商店街案内図には50軒のお店が載っているが、今はもう数軒しか残っていない。
そんな立地条件を物ともせずにがんばっているのが『肉のあさひ』だ。ちょうど月末の特別セール実施中で、静かな通りのそこだけ賑わいを見せている。
父が千葉県旭市
加瀬さんの父が千葉県旭市の出身。銚子の手前の町で、千葉県で一番大きなと場がある。芝浦の委託と殺をしている。
祖父が明治の初め生まれで、肉屋をやっていたらしい。父も肉屋であったが、昭和18年に亡くなっている。
「旭畜産のルーツをたどると私が3代目だが、実際は初代だ」
39年、東京オリンピックがあった年、27歳の時に『肉のあさひ』は復活した。
東京大空襲を見た
20年3月10日、東京の下町が大空襲にあった。
「小岩の柴又街道が鉄道をまたぐ陸橋の上から、飛行機が焼夷弾を落として、川の向こうの平井方面が真っ赤になっていた。翌日は焼け出された人がぞろぞろススだらけで、市川方面へ逃げていくのを見ている。今でも思い出す」
江戸川区はその頃たんぼばかりで、戦災を免れた。
父が月島の萩原商店で肉屋の修業をして、浅草橋で肉屋を営んだ。肉がなかなか手に入らない戦争中、父の兄が旭から定期的に肉を運んで結構儲けていたらしい。
父が亡くなり、肉も配給になって、19年に母は浅草橋から江戸川区に引っ越した。
トラックで豚の卸
加瀬青年は高校を卒業すると、当時まだめずらしかった運転免許証を取得していたため、トヨエースに乗って豚の卸で中央区・台東区・足立区・墨田区・江東区方面を走った。旭に豚を取りに行って、30店舗に配った。
やがて39年、その卸先の肉屋の娘さん、光子さんと結婚。と同時に今の店のすぐ近くの店を譲ってもらって『旭畜産東京支店』として開店した。
「肉屋としての修業はしていない。先生は卸していた肉屋のみなさん方です」
45年に現在地へ
45年になって現在地へ移った。
「まだ砂利道で舗装もされていなかったが、角に風呂屋があって、風呂のない時代には子どもを連れてお母さんがよく通る」
光子さんが揚げ物が得意ですごく売れた。裏にある江戸川高校の昼休みにコロッケが6〜800個も売れた。
ところが豚はいいのだが、困ったのが牛肉。身おろしもなにもできない。
「ここでも昔卸していた小売の人たちがみんな助けてくれた。牛肉の見方・さばき方、みんな教えてもらった」
アテネオリンピック
アテネ五輪の時『肉のあさひ』は日本が金メダルを獲得した翌日は極上和牛肉のサーロインが半額という応援セールを実施した。予想外の活躍で金メダルを16個もとってしまったのが3年前のこと。
「これのおかげで、ステーキがずいぶん売れるようになった。買った人がデパートにいかなくても、ここでおいしい肉があることに気づいてくれた」
この夏も仙台牛のA5を夏期贈答用に5枚セットにして良く売れた。
また、敬老の日に75歳以上のお年寄り50人に、宮城県産の牛肉をプレゼントする企画はことしも実施する予定だ。ただし、ことしはご夫婦はひと口としてお願いする。
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| 「うちの肉を見てよ」 自信の肉が豊富に並ぶ。 |
8人家族が仲良く
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| 敏克さんが導入して2台になったリーチイン。ー22℃に設定。 |
加瀬常務には3人の息子さんがいる。
「まんなかの子がどういうわけか、小学生の時から『大きくなったら肉屋になる』と言っていた」
次男の敏克さんは池袋西武の大井肉店で7年間働いて、常務が体をこわしたのを機に10年前にお店に戻ってきた。
ちょうど同じ時期に組合は、企画指導部で経営改善指導事業を行なっていた。お店も参加していて、敏克さんの意気込みとぴたりと合った。
「いいものを揃えた。決して安くはない、あくまでも品物にこだわった」
ロールキャベツ・ハンバーグなどは、全部冷凍にして、リーチインに。
敏克さんには子どもがふたり、合計8人の家族が一緒にひとつ屋根の下で仲良く暮らしている。
常務のお孫さんが赤ちゃんの時から高校生まで、毎年正月には家族全員でスキーに行っていた。加瀬常務のスキー歴は50年を越える。
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| 一番お気に入りの白馬でのスキーの写真 |
「これからピアノ」お孫さんの陽平くんとアサ |
〔2007年(平成19年)9月15日号「東京食肉新報」掲載〕
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