 |
 |
 |
(上)隅田川にかかる中央大橋と佃
(下)於岩稲荷田宮神社 |
隅田川にかかる、佃の高層ビル街に渡る中央大橋のたもと、住友ツインビルのまん前に泣Iダカの店がある。店の向かいにはお岩さんを祀る於岩稲荷田宮神社があった。
8歳で父を亡くす
小高豊常務理事が平成2年にこの地で泣Iダカを発足させるまでには、さまざまなことがあった。中央ブロックの旅行の時、その話を披露したら予定の倍の時間がかかってしまった。
「ここは2代目以上が多くて1代目の話がおもしろかったのでしょう」
小高常務は昭和12年の大晦日の生まれ、70歳。埼玉県川越市の出身、商人の家に4人兄弟の末っ子だった。
20年1月の雪の降る日、父が勤めていた田無の中島飛行場が空襲に遭い、車で逃げる際に事故で3日後に亡くなった。
商人≠希望
中学を出ると市内にあった荒物雑貨問屋の栗生田商店に丁稚奉公に入った。
間口1間半で奥行き60mといううなぎの寝床で働かされた。朝5時半に起きて7時まで掃き掃除と雑巾掛け、それから夜11時まで、店先に降ろされた荷物を倉庫に運び、自転車とリヤカーで大宮・所沢へ配達に回った。
石鹸、ほうき、砂糖、半紙、障子紙、鼻紙、ちょうちん、ろうそく、ゴム長、すげ笠………3000種類の商品。
1年で16歳になってすぐに三輪車の免許をとったが、3年目でギックリ腰になってしまった。
手に職をつけたい
新聞の募集広告で肉屋の成城西村に入った。肉屋がおもしろそうだった。手に職をつけたいと思った。
小売りと黒澤明や三船敏郎のお屋敷をお客様としていた。
「あんまり楽で、これでお金をもらっていいのかと思った」
お肉のことはすぐ覚えた。1年半で八丁堀の田中屋に移った。
ハタチで店長に
栗生田商店では商人の基本を学んだ。
「厘≠ナ仕入れ、カナイハムツマジキ≠ニいう暗号で値決めされていた。それに比べて肉屋は甘いと思った」
田中屋で売り上げを伸ばしたが、おかみさんの経営とぶつかって、3年でやめてしまった。
さまざまな遍歴
新しい商売をしてみたい。その頃流行りだしたプラスチック屋の外交を1年。TVのチャンネルの文字入れをした。
母がガンで倒れ、看病のため近くのホンダでスーパーカブを1日800台作って1年。米軍基地内で日通引越しセンターの人足もした。
23歳、母は手遅れだった。両親を亡くした。
また肉屋に戻ろう
 |
| (左から)小高豊・君さん夫妻と敦子さん |
24歳の1月1日、築地の神納屋肉屋に入った。田中屋にいたことが認められた。責任者として1年5か月働いた。
それからバイク1台で田中屋さんを借りて鞘取り≠ナ独立。そして1年後田中さんがやめることになり、38年5月田中屋を引き継いだ。八丁堀で肉屋稼業の時代が続く。
平成2年、泣Iダカとして現在地で開店、今に至る。
喉頭がんの疑い
独立して、神納屋の事務員だった君さんと結婚して、仕事も上向きになった。ところが29歳喉頭がんの疑いがもたれた。
「慈恵医大に入院して9日目で、ちょっと小さくなった。がんではない。死刑宣告からいつ退院してもいいとなった」
入院を機に初めて部屋(職人派遣部屋)の職人を使うと、意外とできるのにびっくりした。
それ以来、恩返し≠フつもりで社会奉仕にのめりこむことになる。町会・商店街の総務・青年部の活動、組合では班長・副支部長・支部長と支部役員を次々とこなした。
水準を引上げたい
この5月から組合の常務理事になり、総務部副部長に就いた。抱負を語ってもらった。
「調和を図って、肉屋の水準をもっともっと引上げたい。いろんな面でまだ力不足と思う。昔よりは良くなったが、団結をより強めていきたい」
商人のプロとして、商売で苦労していない秘訣を披瀝してもらった。
「お客様が喜ぶことをすれば繁盛は間違いない。自分が喜んだり楽したら、成り立たない。自分の便利はお客様には不便だ」
これからも青春
男の子と女の子がいる。長男の誠さんが2代目になってくれた。敦子さんと結婚。娘さんも近くに住んで店を手伝っている。娘さんのところにお孫さんがひとり。
店はあとふたりの板前さんを含めて7人でやっている。銀座方面への卸とお弁当が売れている。三菱と住友の倉庫跡に高層ビルが建ち、3万人の昼間人口がある。
朝7時から6時半まで新潟県小千谷産のコシヒカリが何回も炊かれる。
旅行が好き、家族でも行くが、「団体旅行の幹事をよく頼まれる」
人のために、人のことで走り回る。自分を受け入れてくれた人たちに恩返しをしたい。
「前向きに、これからも青春を生きていきたい」
〔2008年(平成20年)7月15日号「東京食肉新報」掲載〕
ページ先頭に戻る
|