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(上)兄弟で仕込みに大忙し。
(左)店先に晃・裕子夫妻の愛車が並ぶ。 |
東急池上線と東急大井町線が交差する旗の台駅から3分歩くと「肉の丸萬」(品川支部)がある。父から受け継いだお肉の専門店を兄弟で仲良く、元気良く続けている。
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| (左から)小林裕子さん、兄・晃さん、弟・幸二さん。 |
昭和44年に創業
こばやしあきら≠アと小林晃さんは昭和31年5月生まれの54歳。3つ下の弟の幸二さんと、晃さんの奥様の裕子さんの3人で店を守っている。
父の萬三(まんぞう)さんは栃木県佐野の出身。荒川区西尾久の山根畜産で修業、一番番頭になって、36年頃練馬区氷川台のマーケットの中に店を構えたが、まだ借地・借家での営業だった。
44年、旗の台に土地を買って移転、晴れて「肉の丸萬」の創業だ。晃さんは中学1年の2学期からここの住人になった。
「地元の友達が買い物に来てくれる」
荏原支部長を2年
その頃、店員が次々やめたこともあって、父から言われて、兄弟はふたりとも、高校を出るとすぐにお店を手伝った。父と職人と板前から技術を教わった。
53・54年、萬三さんは荏原支部長を務めた。事業部長も兼ねていたので、その実働部隊を兄弟が担った。
「あちこち色々行った先で仕事を教えてもらった。よその店の仕事を見せてもらうのは、すごく勉強になった。組合の先輩に本当にかわいがってもらった」

平成8年に改築
平成8年に現在の3階建てのビルに改築した。
「オヤジがガンになり、入院した時に、景気のいい話をして元気をつけてやりたかった。店が古くなっていたこともあって建て直したくもあった。オヤジは図面を見せると喜んでいた」
7年に萬三さんは62歳で、完成を見ずに亡くなった。
弟の幸二さんの方がオヤジに似ている。兄の晃さんが言う。
「弟が親子に見られた。私は似てないから職人だと思われて『おにいちゃん、この店ずいぶん長いわね』と今だにお客様に言われる」
品川区荏原では最盛期10軒の肉屋があったが、今では1軒になってしまった。
弟の花嫁募集中
幸二さんは今独身で花嫁募集中!
「交際相手がいる時にオヤジに、兄が結婚していないからと反対されて、そのうちに体をこわして入院してしまった」
その兄の晃さんは、病院への納品で栄養士の裕子さんと結婚、中学3年の娘さんがいる。
「弟は真面目で気がやさしい。ぜひいい人がいたらお願いします」
お店のビルは兄の家族が住んでいるが、3軒先に弟の住まいがある。1階は車庫になっているが、祭りの頃になると、町会のみこしを預かることになる。普段は分解して神社の倉庫にしまってあるが、組み立ててからの1週間は置き場所がないのだ。20年以上そうしているそうだ。
幸二さんは店の屋上でポットで野菜も作る。メロンやさつまいも、シークワーサーはお客様に差し上げて喜ばれている。
「お肉しか売らない」
「基本的に精肉店なので、お肉しか売るものがない。変わったものはやってない、『肉屋』でやっていこうと思っている」
肉をメインに、弁当などに手を広げてもやりきれない。あまり分散してしまうと、どれも中途半端になってしまって、お客様が望まれない形になってしまう。
創業者の萬三さんの考え方だった。
「ぼくらもまったくその通りだと思った」
人通りの少ない店にお客様に来てもらう、少ない人数でできることをやってきたのが、結果的にうまく合った。
「あと20年できる」
「ぼくらが楽しそうにやっていれば『肉屋をやってもいいかな』という人が出てくるかもしれない。しょぼくれてやっていると『肉屋になんかなるもんじゃない』となる。
この年まで肉屋をできたことが幸福だと思う。また、もうしばらくできそうなのも嬉しい。なるべく長く、最低20年は続けたい。
どういう形にせよ『肉の丸萬』の名前が残っていけたら最高だね」
お肉の専門店として
仕事を始めた頃は、毎日買いに来てその日食べるものを買っていくのが当たり前だった。今は買いだめして冷蔵庫に入れておく時代で、その間に色が変わってしまっては駄目だ。
「ことしの夏は暑くてつらかった」
専門店がなくて遠くから来るお客様が多いので、保冷剤をたくさん用意した。
「専門店のサービス・商品を要求している人は必ずいる」
若い時は兄弟げんかが絶えなかった。
「オヤジが亡くなってから、3人でやっていたものを、2人でやらなくてはいけなくなった。自分の仕事に精一杯でけんかをしているヒマがない。年をとって相手のがんばってることがわかるようにもなった」
役割分担も自然とできた。主に兄はスライサー、弟は鶏の切り身を担当している。
営業は朝9時半から夜8時半まで、休みは日曜日のみ。元気な兄弟に会いに行こう。
〔2010年(平成22年)10月15日号「東京食肉新報」掲載〕
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