常に向上心を忘れず
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| 〜安野鉄馬専務理事の来た道〜 |
安野鉄馬常務理事・広報部長(72)の出身は埼玉県坂戸市。兄弟は10歳上の長男を頭に男だけの5人で安野常務は三男。5歳のときに両親を亡くし、兄弟はそれぞれ親戚に引き取られ別々に暮らすことに。安野氏は東松山で農家を営む叔母のところへ。そこで義務教育(当時は高等小学校)まで出してもらえた。
その後、家計を助けるために上尾市の大農家へ奉公に出る。戦時中でどの家庭も生活苦で、実子を育てるのも大変だった。わずかな給金だったが、叔母の家に仕送りをした。
戦争が激化する中、奉公先から青年学校へ。青年学校には一部と二部があり、軍事教練の場である。一応教科書はあったが、勉強はせず、散発式歩兵銃を持って山を駆け巡る毎日で、学校とは名ばかりだった。入ったのは14歳のとき。1年後、校舎に兵隊が入り、青年学校生はお寺へ回された。そこに沢山の銃や剣が飾ってあり、貴重品の銃を使い、軍事教練に明け暮れた。
その後、義勇隊に入った。それは軍隊と共に橋架けの工事などを行うところである。安野氏はそこで終戦を迎える。軍隊と一緒に皇居の前へ玉音放送を聞きに行った。ほとんど意味が分からなかったが、泣く兵隊を見、辛うじて無条件降伏という言葉が聞き取れ、敗戦に気づく。
終戦と同時に青年学校は解散、上尾に戻り、そこで数年働いたが、どうしても農業が好きになれなかった。奉公先は安野常務に家も土地もやるといったが、どうしても東京へ出たかった。戦後2年ほど経ち、民主主義が浸透し、言いたいことが言えるようになっていた。そこで「どんな仕事でもいい、どうしても東京へ出たい」と自己主張を貫いたのである。
ついに上京
昭和21年頃、下見に東京へ出た。上野まで電車で行き、浅草へは徒歩。その時、上野から浅草観音が見えたのに、びっくりしたのを覚えている。一面の焼け野原だったからだ。一番印象に残っているのは、あちこちに大きな金庫が焼け残っていたことである。
対称的に、浅草六区がにぎやかだった。映画を見たり、田舎では売っていないアイスマックというものを食べた。アイスキャンデーより柔らかく、非常に美味かった。コッペパンにあんこが挟まれたものを食べた覚えもある。1個10円だったろうか。下見に来たころは、まだ農業をしていたので、金はあった。季節前にキュウリを出荷すると1本15円で売れた時代である。
安野氏は当時、農産物の出荷で大宮・川越の市場や八百屋へ通っていた。その経験から自分は商売に向いているのではと思い始めていた。市場の値段が安いと儲けが少ないので、直接八百屋に売りに行って利益を増やすといった機転が利いたのだ。何か商いをしようと思い、八百屋になろうと思った。それなら東京へ出ようと考えたのである。
昭和23年、ついに上京。新宿の二幸(今のアルタ)の中にある鶏肉屋に就職した。その店のケースは8〜9尺位。隣は肉屋で『日山』。鶏肉屋の倍程の大きさだ。鶏肉屋はたいして繁盛しなかったが、肉屋は建物の外まで行列ができるほどのにぎわいだった。その状況を見て、「肉屋になりたい」と思い始めた。
念願の肉屋に
そう思いながらも、鶏肉屋に6年半働くことに。
その間に飯村正一氏(新宿支部・飯村畜産)が復員して鶏肉屋へ戻って来た。飯村氏は肉屋も出来たので、彼の弟子となって働くことに。肉のことも、商売も全て彼に教わった。その師匠が独立する前に安野常務は独立する。しかし飯村氏の独立後は差がはっきりした。飯村氏は上手である。立派な店を出し、商いも規模が大きかった。
安野常務は対称的にこつこつ型の商売を展開。今の場所(渋谷区本町)に店を開こうと決めたポイントは、新宿に近く、不動通り商店街は距離が長く、人通りが非常に多い商店街だったからである。当初からこの商店街でと思ったが、地価が高くとても手が出ない。そこで商店街の入り口にあたる今の場所へ、出店を決めた。出店時は現在の店より狭かったが、同じ本町に支店があった。その店は6年ほど弟子に任せて営業。その後そこは暖簾分けし、安野氏は本店1本に営業を絞った。当時はバブルの初期で、従業員を集めるのが難しく、良いタイミングと思い、暖簾分けの形で縮小したのである。
それを機会に、家族だけの経営に切り替えた。バブル期は、手を広げる人が多かったが、その逆を行ったのだ。今思えば、当時の高い人件費や、バブル後の状況を見るにつけ、良い判断だったと思っている。。
地上4階地下1階のビルで、当初は息子の慎一さんが最上階の半分を使い、後は人に貸していた。家賃収入があり、借金返済は完了した。今は慎一さんが結婚し子供も出来たので、賃貸せずに徐々に家族の部屋にあてている。
パソコンに挑戦
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| パソコンに向かう安野常務 |
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| 自作のプライスカード |
現在でも、店の立地は商売には好都合で、付近は住宅地があり消費者は多い。学校給食や病院など大口の客も抱えている。
長年、同じ場所で営業していると、年輩者を中心になじみの客が多くなる。昔の支店の客もわざわざ足を運んでくれる。しかし、それではいけないと思っている。新しい世代の客を取り込むべきだと。
商いは当たり前のことを当たり前にやっているだけではだめだ。それ以上のことを常に求めなければならない。また、お客様は神様だという気持ちを持つべきである。その心で接客すると、お客も気持ちがいいし、自分たちもうれしい。おかげで「豚肉は安野さんじゃなきゃだめだよ」、「牛肉はやっぱりここだよ」とお客が言ってくれる。だからこそ、自信を持って産地表示をし、仕入元もチェックしなければならない。
また、仕入値の変動に合わせて、売価もこまめに変えている。商いをするために価格表示は重要だ。それを行うために安野氏は、パソコンを使ったPOP製作を始めたのである。手書きだと価格変動が起こっても面倒で価格がそのままになりがちだ。パソコンソフトを使えば、使い回しが出来、仕上がりは早く、なんと言っても楽だ。常に新しい価格を表示することも、顧客サービスのひとつである。
家族に恵まれる
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| 京都にご夫婦で旅行 |
趣味はまず、旅行。夫人のミチ子さんも同じ。夫婦の時もあるが友人との旅もする。年に7〜8回は行く。取材直前も夫婦で京都へ行ってきたばかりだ。週末も都内の公園を散策。以前は海外旅行も行っていた。欧州だと仏、伊、アジアは、香港、中国、韓国など。中国では万里の長城など遺跡を多く見ることが出来た。ハワイは15年に行くつもりだったが、イラク情勢がネックとなり中止した。
他に、ダンス、カラオケなど。ダンスはもうやめてしまったが、カラオケは現役。持ち歌は?の問いには笑ってごまかされてしまった。
長男の奥さんの清美さんは、美人の上、働き者で、非常に助かっている。「今時では珍しいタイプ。よく肉屋の嫁に来てくれたものだ」と、安野常務は喜んでいる。また、来年高校に入る孫は夜の後片付けを手伝ってくれる。名前は辰哉君で、小さいころから野球をやっており、高校は日体荏原で野球部に入る。ゆくゆくは継いでくれるのではとの問いに、「いや、それはどうか」と応えたが、内心は期待しているように見えた。
事業から広報へ
組合の役員は昭和59年から。ほとんどを事業部で過ごしたが、平成14年に広報部長に就任した。長年の所属から今でも事業部に協力しなければという気持ちは強い。「広報部長となったからには、事業と福祉共済をもり立てる活動を行いたい」と意欲を見せてくれた。
〔2004年(平成16年)1月15日号「東京食肉新報」掲載〕
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