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日本橋小伝馬町にある「伊勢重」の創業は明治2年(1869)、ことしで141年になる。『明治文化史』という本に中川嘉兵衛が芝露月町で最初に牛鍋屋を開業したのに続いて、東京に数店の牛鍋屋ができたという記事の中に「伊勢重」が載っている。この春から組合の専務理事に就任した宮本重樹社長は、その6代目に当たる。
伊勢の重兵衛さん
宮本重兵衛・嘉津子夫妻が本所で骨董屋を営んでいたが、小伝馬町に移り「伊勢重」ののれんをあげたのがそもそもの始まりだった。江戸が東京と改まったばかり、文明開化の風潮におもむく一方、まだ四つ足を食べるなぞとんでもないという考えも根強かったその時勢に、牛鍋屋を始めれば世間から異端者扱いを受けるのは当然だが、それを頑張って押し通した先見の明≠ェあったんだろうと宮本社長が語る。
「伊勢神宮の近くから出て来たので、名前をつける時に宮本≠ノなったらしい」
東京大空襲で焼失

昭和20年3月10日の東京大空襲で東京の下町は灰塵に帰した。戦後、店は3年後に復興、その2年後の25年7月に増築開店した。
右の写真はその時に配った案内状。現在使われているテーブルマットのデザインに使われている。作者は2代目万之助氏の子息の重良氏、本来なら3代目を継ぐはずだったが、きょうだいが多かったおかげで彫刻家となり、マッチのデザインを考えたりの広報で側面から店を支えた。
3代目の福蔵氏は本郷・江知勝の出、江知勝からは浅草・ちんやにも養子が出ており、親交がある。4代目が重勝氏。
父は相撲の高見山
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| 昭和44年のお店 |
宮本重樹専務理事は、昭和28年1月生まれの57歳。父は5代目常武氏。
「ジェシー高見山の前に高見山を名乗って相撲をとっていた。幕下までいったが戦争でやめて店に来た」
44年に発刊された『江戸から東京へ』にその当時の店の写真(右)が載っている。1969年だからちょうど百年の時、専務は16歳だった。
母喜美子との間に3人の子どもが生まれ、姉・妹の真ん中に重樹さんがいる。父は平成10年に亡くなり、6代目になった。ことしで12年目。
牛佃煮≠ェ名物
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(上)名物・牛佃煮とテイクアウト・メニュー。
(下)店内。 |
冷蔵庫のない時代、牛肉の長期保存のために考案された創業以来の牛佃煮=B夏季にも雨季にも常温で長期に保存が効き、しかも味が変わらないので、国内はもちろん、海外旅行にも持っていく方がいる。
温かいご飯にのせても、お茶漬けにしても、また酒の肴としてもおいしい。
「まるでしょっぱいから、駄目な人は一口食べて駄目だけど、好きな人はすごく好きで、知る人ぞ知る、うちの名物なんです」
忙しかった青春
宮本家は皆、学習院。重樹青年も中学から通い、学習院大学法学部を卒業すると、ニチレイに就職した。
「すぐやめてしまうんだろう? と会社に言われても、『やめません』ときっぱりと言って入った」
神戸工場でロッテアイスクリームの出荷を担当した。ところが1年後に母が亡くなり、2年後に日本橋に戻った。
その1年後の53年、25歳で聡智子さんと結婚。私生活で忙しかった頃だったと振り返る。
平成3年にビルに
店に入った頃は販売が75%、料飲が25%だったが、今は逆転した売り上げ比率になった。
塩分が嫌われて牛佃煮はそれほど伸びが期待できない。
平成3年、9階建ての共同ビルにした。その1階と地下を使っている。
1階が牛佃煮と精肉、牛ヒレステーキ・牛鍋・角煮揚・焼豚ごはんのテイクアウトを扱っている。9時半から7時まで。
地下がすき焼き90席。11時から10時まで。日曜祭日が休み。
架け橋としての役
この春の役員改選で専務理事に就任した。今までの感想とこれからの抱負を語ってもらった。
「色々な事情で常務経験のないまま専務になった。常務会に参加するのも初めてで、いきなり『総括室から報告します』というのを、聞く方の立場を一回も経験しないで報告する立場になった。
あいつで大丈夫か、と周りの人が心配した。でも励ましてくれている、と良く解釈してやってきた。数か月たって感じはわかってきたつもり。
組合のことをわかっていないし経験もないけれど、せっかく与えられた使命を裏切ってはいけない。全般的には組合員と本部の間に立って、架け橋≠ニなって、意思の疎通を図りたいと思う。どこまでできるか、できる範囲でやりたい。
みんな良くしたいのは同じなんだから、うまくコーディネートできたらと思う。
それと広報部長として実のあるポスター、実効性のあるHPに少しずつしていきたい。
ミニ支部長会もそうだったけれど、勉強して自分の言葉で語れればいいなと思っています」
後継者ができた
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| 宮本重樹さん(左)と後継の尚樹さん |
前の店の時は一日中両親も含めて一緒に働いていて、家庭と仕事の分かれ目がはっきりしていないのがいやだった。今、自宅は西大井にあって通っている。家庭は家庭、仕事は仕事にしている。
休みの日には硬式テニスを楽しむ。中学1年から続いている。次男が似たのかテニスコーチになった。ゴルフは時間がなくて30代で引退してしまった。
子どもは3人、長男の尚樹(しょうじゅ)さんがこの春から店を手伝っている。
「私が今あるのは、父・祖父・先祖のおかげだと思う。若いと言われても年はとってくる。これからは店を大きくすることよりも次世代にうまくつなげていきたい」
〔2010年(平成22年)9月15日号「東京食肉新報」掲載〕
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